
陳港生(房仕龍)誕生から、偉大な世界のジャッキー・チェンになるまでの主な出来事を取り上げた略年表。
年代などは参考文献などにより多少前後していますが、近代映画社の「I AM JACKIE CHAN ジャッキー・チェン著」を主に熟読してまとめました。
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陳港生(房仕龍)誕生から、偉大な世界のジャッキー・チェンになるまでの主な出来事を取り上げた略年表。
年代などは参考文献などにより多少前後していますが、近代映画社の「I AM JACKIE CHAN ジャッキー・チェン著」を主に熟読してまとめました。
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4月7日、チャールズ・チャン(陳志平 家系図上では房道龍 国民党軍の退役軍人で大使館の料理人)とリーリー・チャン(陳莉莉 家系図上では陳月榮 同じく大使館の家政婦)の間に香港で生まれ、港生(コンサン)と名づけられる(家系図上では房仕龍であることが後に分かる)。
母胎の中に12ヶ月もいたため、12ポンド(5,400〜5,500g)もある巨大児だった。そのため、両親からはポーポー(大砲という意味)というニック・ネームで呼ばれる。中国大陸の共産主義革命から逃れるために英国の植民地である香港にやってきた家族にとっては、決して楽とは言えない極貧の酷い生活だった。
苦労と規律を重んじる父親から、幼少期より訓練を受け、クンフーを学ぶ。父親の思惑とは裏腹に、強く傲慢になっていった港生は喧嘩ばかりしていた。ナンホア・アカデミー小学校へ行ってはみても勉強は全くせず、落第、退学。これがジャッキーの最終学歴である。
7歳の時、父親がオーストラリアのアメリカ大使館で料理人の職に就くために、学院にあずけられる。過酷な訓練が始まり、10年間を過ごすこととなる。ここで恩師のユー・イェムユン(于占元)や兄貴分(ビゲスト・ブラザー)のサモ・ハン・キンポー(洪金寶)、弟分(リトル・ブラザー)のユン・ピョウ(元彪)たちと出会い、侵食を共にする。サモ・ハンやユン・ピョウらと共に「七小福」というグループに属し、京劇の巡業をする。
8歳の時、台湾の女優リー・リーファと共演。
学院の代表として参加したイベントで、同じ舞台に立つオー・チャンという女の子に恋をする。ジャッキーにとって彼女は特別な人であり、何十年も経った後も、彼女の幸せのために影ながらの応援をした。
京劇の時代は終わり、学院を去ることを余儀なくされる。そして仕事もないまま映画界へ。
サモ・ハン・キンポーの助けもあって、スタントの仕事をする。オー・チャンとの別れを機に、危険なスタントにも果敢に挑み、スタントマンとして認められていく。サモ・ハン・キンポーやユン・ピョウたちとも時々交流を重ね、仕事にありつけない日々も夢を語り合う日々を送る。
同じく学院から映画界へ入った先輩(ビゲスト・シスター)の紹介で、「廣東小老虎」(タイガー・プロジェクト)の主役として出演するが、ギャラも出ない低予算のひどい映画だった。この時のクレジットは陳元龍。
ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」で悪役ミスター・スズキのダブル(スタントマン)として出演。顔が映るのはオープニングの一瞬のみ。同じ学院のユン・ワーはブルース・リー自身のダブルを行っている。
「The Heroine」(鐵娃)という映画で初めてスタント・コーディネーターを務め、日本人の悪役を演じる。初めてロー・ウェーと会った作品でもあり、この後の「ドラゴン・ファイター(1972)」共々、大失敗に終わる。
ブルース・リーの「燃えよドラゴン」でスタントをする。サモ・ハン・キンポーはオープニングでブルース・リーと闘っている。
ブルース・リー(享年32歳)の死亡を機に、アクション映画界が下火に。
仕事もなく、わずかな貯金も酒と博打に使ってしまい、泣く泣くオーストラリアの両親の元へ。